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肥沼信次医師の生涯!ドイツに残った理由や伝染病は?死後43年経った奇跡の出来事は?[世界ナゼそこに]

『世界ナゼそこに?日本人』に医師の

肥沼信次(こえぬま のぶつぐ)さんが特集

されます。

 

肥沼信次とはどういう方なのか?というのが

気になりますね。

 

肥沼さんは、第2次世界大戦後の混乱する

ドイツで自らの命を顧みずドイツの人々を

恐ろしい伝染病から救った方だそうです。

 

今回はそんな伝説的な医師、肥沼信次さんの

経歴やプロフィール、さらにドイツに残った

理由や恐ろしい伝染病とは、死後43年経った

のちに起こった奇跡の出来事とは?について

調べてみたいと思います。

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伝説的な医師、肥沼信次さんの経歴やプロフィール

名前肥沼信次(こえぬま のぶつぐ)
生年月日1908年10月9日
没年月日1946年3月8日
出身地東京都八王子
職業医師

肥沼さんは、1908年東京八王子で医師を

していた梅三郎さん、その妻ハツさんの

長男として生まれ育ちます。

 

父梅三郎さんは、軍医として活躍し、さらに

地元八王子で医院を開業するなどされていた方

だったそうで、そんな父のあとを追いかけ、

肥沼さんも医師を目指し勉強に励んでいた

そうです。

 

相当立派なお父さんだったんでしょうね。

 

さて、肥沼さんは旧制中学を卒業後、

日本医科大学から東京帝国大学放射線研究室

を卒業します。

 

現在の東京大学理科3類ですね。

めっちゃ優秀だったんですね。

 

そして、昭和12年(1937年)には、

当時医療最先端だったドイツへ

国費留学生として留学することになります。

 

そして、ドイツではロベルト・コッホ研究所

を経てベルリン大学の放射線研究室に入り、

客員研究員として実験・研究に取り組まれます

 

そんな肥沼さんが評価され、1944年には

医学部研究補助員として採用され、

ベルリン大学医学部初の東洋人での

教授資格を取得されます。

 

すごい方だったんですね。

そんなすごい方なのに、今の日本人は

全然存在について知らなかったんですね。

 

さて、そんな肥沼医師に悲劇が近づいて

きます。

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伝説的な医師、肥沼信次さんがドイツに残った理由

1944年、東洋人初の教授資格を取得された

肥沼医師ですが、時代が活躍を許しません

でした。

 

そう、1944年といえば、昭和19年、

第2次世界大戦の真っ只中です。

 

日本もアメリカなどの連合国と交戦中で

大変でしたが、同じ陣営のドイツも

イギリス・フランスなどの連合国側と

熾烈な戦争の最中だったのです。

 

そして、ドイツでの戦局悪化に伴い、

首都ベルリン陥落直前には、肥沼医師を含む

在留日本人に対し、日本大使館から

退避勧告が出されます。

 

実際、帰国船の乗客名簿には

肥沼信次医師の名前も記録されていた

そうですが、3月18日肥沼医師は港に来ず、

ドイツに残ることを選択します。

 

気になる理由ですが、実は明らかになって

いません。

 

もっと、ドイツで勉強を続けたかったのか、

もしくは、他に・・・

 

その後の肥沼医師の消息ですが、

ドイツ軍人の未亡人母娘と一緒に、

首都ベルリンから離れ、エバースベルデに

避難していたそうです。

 

もしかしたら、その未亡人の方と・・・

邪推ですねww

 

そして、その町で戦後を迎えます。

 

そんな肥沼医師のもとに、

ドイツを占領しているソ連軍から、

隣町のヴリーツェンの伝染病医療センターの

初代所長を任命されます。

 

なんとも紆余曲折な人生ですね。

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伝説的な医師、肥沼信次さんを襲った恐ろしい伝染病

さて、伝染病医療センターの所長に任命された

肥沼医師ですが、当時ドイツ国内は

戦争の影響で街の機能が低下しており、

不衛生な状態だったそうです。

 

そんな状態のドイツで恐ろしい伝染病が蔓延

することになります。

 

それが、チフス・コレラなどです。

 

チフスとは、

高熱や発疹を伴う細菌感染症だそうで、

基本、現代の日本ではあまり聞き馴染みが

ありませんが、15日ほどで死に至るほど

致死率が高く、60歳以上の方の場合は

100%近くになる恐ろしい病気です。

 

この病気は、シラミから感染する病気のため

現代の毎日シャンプーするような清潔な日本

ではほとんど見かけることはありませんが、

戦後日本でも猛威を振るっていたそうです。

 

まぁ、上下水道などのインフラがガタガタ

の場所で引き起こるという感じの病気ですね。

現在では治療法も確立しているそうですが、

当時は全く手の打ちようがない難病だった

そうです。

 

さて、当の肥沼医師ですが、必死に治療に

当たっていたそうですが、その肥沼医師自身も

発疹チフスに罹患してしまい、

37歳の若さでお亡くなりになられます。

 

ちなみに、肥沼医師は、最後に、

桜をもう一度見たかった

という言葉を残していたそうです。

 

遠い異国の地で、覚悟を持って残ったけれども

病に倒れてしまい、最後の時には日本を

恋しく思ったんでしょうね。

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伝説的な医師、肥沼信次さんの死後43年経ったのちに起こった奇跡の出来事とは?

さて、1946年にお亡くなりになられた

肥沼医師ですが、先ほど書きましたように、

ソ連軍によって作られた街ヴリーツェンの

伝染病医療センターの所長になっていたこと

については、その後の東西冷戦などもあり、

日本には伝わって来ていませんでした。

 

そんな肥沼医師の情報が日本に届いたのは、

東西冷戦が終わる1989年。

肥沼医師が亡くなられて43年後ですね。

 

当時ドイツでは東西分断が解消するなど

東ドイツの情報が西側にも届くようになって

おり、そんな中朝日新聞に、

『コエヌマノブツグ』について尋ねる記事が

掲載されます。

 

当時、ヴリーツェン近郊の郷土博物館館長が

地元で亡くなった日本人医師コエヌマに

興味をもち調べていたそうなんです。

 

この記事を見た肥沼医師の弟の栄治さんが

連絡を取り、交流が始まったそうです。

 

すごい話ですね。

まさか弟さんも40数年ぶりに、

兄の名前も見ることになるとは思いも

寄らなかったでしょうね。ww

 

そして、1992年には、ヴリーツェン市から

肥沼医師に対し、名誉市民の称号が与えられた

そうです。

 

さらに、1994年には記念式典が催され、

肥沼医師が最後に語った「桜が見たい」という

言葉を、弟の栄治さんが聞きヴリーツェン市に

桜の苗木100本を送ったそうです。

 

さらに、ドクター・コエヌマ・ビーチパーク

という運動施設なども現在あるそうで、

ヴリーツェン市民の身近な存在になって

いるそうです。

また、生まれ育った八王子市とヴリーツェン市

は2017年に友好交流協定を結ぶなど、

現在でも交流がつながっているそうです。

 

ドイツで無念のうちに散ってしまった

肥沼医師ですが、死後何十年たっても

その名が残るほどの活躍をされ、

新たな交流を生んでいるということは、

なかなか出来ないですよね。

 

ヴリーツェンに贈られた桜を肥沼医師も

見ているのかもしれませんね。

まとめ

いかがだったでしょうか?

 

今回は、遠いドイツで自らの命を顧みず

人々を救った医師肥沼信次さんの

経歴やプロフィール、さらにドイツに残った

理由や恐ろしい伝染病とは、死後43年経った

のちに起こった奇跡の出来事とは?について

調べてみました。

 

番組では、どんなエピソードが出てくるのか

興味が出てきますね。

 

それでは、最後までご覧いただき

ありがとうございました。

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