世界ナゼそこに?日本人~知られざる波瀾万丈伝~

加藤明は女子バレーでペルーの英雄に!経歴やプロフ!息子幸一郎がスゴい!【世界ナゼそこに?日本人】

2018年8月13日(月) 20:00 ~ 21:54放送の

【世界ナゼそこの日本人】に

加藤明さんが特集されます。

 

加藤さんは、南米ペルーで、

当時最弱だった女子バレーボール

を強化して、

世界の強豪国入りをさせ、

国民的英雄となられた方です。

 

今回は、そんな加藤明さんについて

調べてみたいと思います。

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加藤明さんの経歴・プロフィール

名前加藤明
生年月日1933年1月3日
没年月日1982年3月20日
出身地神奈川県小田原市
職業バレーボール選手(元)
バレーボール指導者

加藤さんは、

1933年(昭和8年)に神奈川県小田原市に

生まれます。

 

そして、8歳の頃に、ローラースケート

で転倒してしまい、

なんと腕を骨折されてしまいます。

 

・・・加藤さんが8歳の頃というと、

昭和16年・・・

太平洋戦争が始まった年ですね。

 

意外とそんな時代にローラースケートとか

あったんですねww

 

まぁ、おそらく

加藤さんのご実家は、

裕福なご家庭だったんでしょうね。

 

さて、この骨折のリハビリにと、

始められたのが、

バレーボールでした。

 

腕の骨折のリハビリに

バレーボールがどう良くなるのか

わかりませんがww

 

そんなことおかまいなしに加藤少年は、

バレーボールに

夢中になっていったそうです。

 

中学・高校と

バレーの練習に明け暮れたそうです。

 

時代的には、

戦後直後ですが、

中学・高校に行くことができたとなると、

本格的にお金持ちだったんでしょうね。

 

さて、高校卒業後は、

慶応大学法学部に入学され、

もちろん大学に入ってからも

バレーを続け、

その頃から、バレーボール選手として

全国に名を広めていきました。

 

そして、大学卒業後の

1955年バレボールの実業団の名門

八幡製鉄(現、堺ブレイザーズ)

に入社されます。

 

そして、八幡製鉄でも活躍を続け、

1960年からはチームのキャプテンに就任

また全日本代表にも選ばれ、

ブラジル・リオデジャネイロで行われた

世界選手権に出場されます。

 

選手として活躍されていたんですね。

 

しかし、

世界選手権出場後、現役を引退されます。

 

そして、翌年の1961年

母校慶應義塾大学の

バレー部前監督松平康隆さんに

”後任として監督をしないか”

と誘われ、

母校の監督に就任されます。

 

当時、慶應大学は2部リーグ落ち

と低迷していましたが、

加藤監督は

チームを立て直しをはかります。

 

そして、就任から3年後の1964年には、

全日本選手権で優勝を果たします。

 

すごいですね。

 

選手としても優秀で、

監督・指導者としても

とても優秀な方だったんですね。

 

そんな手腕を買われ、

意外なところからオファーがあります。

 

それが、ペルーの女子ナショナルチーム

の監督の依頼でした。

 

当時のペルー女子バレーは、

お世辞にも強豪国とは言えず、

オリンピックには出場もできていません

でした。

 

また時代背景として、

”東洋の魔女”と呼ばれた

女子日本代表が全盛期でした。

 

ペルー政府は、女子バレーの強化

を模索していたところ、

低迷していたチームを復活させた

加藤監督を見つけ、

恩師である松平前監督の仲介もあり、

務めていた八幡製鉄を休職し、

2年間限定で

ペルー女子バレーの監督に就任します。

 

しかし、

実際に練習をみて

加藤監督は愕然とします。

 

ペルーという国を代表するチームの練習が

たった1時間!!

いわゆるお嬢様たちが、趣味程度に

やっていたというレベルだったそうです。

 

すごいですね。

日本だったら、まぁありえないですね。ww

 

加藤監督は、

”東洋の魔女”日本女子バレー代表の

厳しい練習のフィルムを

選手に見せ、

ペルーの選手にも

同様の厳しい練習をさせたそうです。

 

そうなると、もちろんww

すぐに音をあげて、練習を逃げ出す

選手が続出したそうです。

 

まぁ、それまで趣味程度にしか

してこなかったのに、

急に厳しくされたら。。。

 

さて、こうなると、

新聞もほっときません。

”非人道的な練習”や、

”野蛮な国から来た野蛮な監督”

などなどww

一斉に批判記事が掲載されたそうですが

加藤監督は全く諦めなかったそうです。

 

裕福な家庭の白人選手などは

どんどん辞めていきましたが、

貧しい先住民系の選手は

やはり根性が違うのでしょう、

チームに残ったそうです。

 

また、自身でスカウト活動も行い、

埋もれていた才能を発掘していきました。

 

そしてそのチームに対し、

きつい練習を課していったそうです。

 

さらに厳しいだけでなく、

練習後は、選手たちと食卓を囲み、

すき焼きを振舞ったり、

加藤監督得意のギターを弾き、

坂本九さんの「上を向いて歩こう」を

一緒に歌ったそうです。

 

う〜ん、

ひどい言い方をすれば、

アメとムチですねww

 

このようにして、家族同様の交流を深め、

選手たちに、加藤監督の熱意が伝わり、

チームの実力はどんどん向上していった

そうです。

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ペルーの英雄誕生

 

そして、契約期限が終わる

1967年日本で世界選手権が開催されます。

 

2年間の集大成として参加した

大会でしたが、

結果は、参加国中、最下位!!

しかも、

日本には、1対15の大差で負けるという

屈辱を受けてしまいます。

 

この大会を最後に監督の期限を迎える

加藤監督は、

 

せっかくここまで頑張ったのに・・

もう少し時間があれば・・

 

このままでは終われない!

 

と感じた加藤監督は、

所属する八幡製鉄に対し、

休職期間の延長を求めますが、

 

会社の判断として却下されてしまします。

 

まぁ、2年も休職してさらに延長だと、

なかなか企業としても

OKとはいかないですよね。

 

しかし、

ここから逆転劇が起こります。ww

 

残念な気持ちのまま、

空港まで選手を見送った加藤監督を、

選手が別れを惜しんでいるという記事が

新聞紙面に掲載されたそうです。

 

これを見た会社側も、

ここまで選手に慕われているのならば

と、さらに1年の期間延長を

認めてくれたそうです。

 

新聞記事で批判されていた加藤監督が、

新聞記事で逆転劇を行ったというのが、

なかなか面白いですねww

 

そして、そこから快進撃が起こります。

翌1968年メキシコ五輪に、

ペルー代表は初出場。

しかも、メダルこそ逃したものの、

主催国のメキシコや、強豪国のアメリカ

を破り、堂々の4位入賞!!

を果たします。

 

もうこうなると、

ペルーの新聞も、手のひらを返しますww

 

これまでの”野蛮な監督”から、

いきなり、「ペルーの英雄」になります。w

 

そして、世間では、

子供にakiraと名付ける親が

続出したそうです。ww

 

ペルーという国の

国民性なんでしょうかね。

 

その後、指導者として、

引っ張りだこになり、

チリや、西ドイツなどに招かれ、

指導に当たりますが、

再びペルーに戻られます。

 

さて、そんな加藤監督の

次の目標は、

「世界最強の日本代表に勝つこと」

として、

今後もペルー代表監督を続けるため、

長く休職していた八幡製鉄を辞め、

ペルーに永住しようと

スポーツメーカーのアシックスの

中南米駐在員事務所長として、

仕事に従事しながら

監督業に携わります。

 

骨を埋める覚悟ですね!

 

そして、

1982年に、世界選手権が、

ペルーで初めて開催されることが決定

します。

 

この発表にとても喜んでいた

加藤さんでしたが、

 

しかし、そんな加藤監督に、

病魔が忍び寄ります。

 

ウイルス性の急性肝炎です。

 

楽しみにしておられた

世界選手権を自分でご覧になることなく、

1982年3月20日、

49歳の若さでお亡くなりになります。

 

本当に早すぎる死ですよね。

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家族(嫁・息子)は?長男はFIFAの職員に

さて、

そんな若くしてお亡くなりになられた

加藤さんですが、

ご家族(嫁・子供)は

いらしたんでしょうか。

 

まず、ご結婚されており、

奥様は、典子さん

とおっしゃいます。

 

お写真などは見当たりませんでした。

 

まぁ、

一般の方なので、仕方ありませんがww

 

そして、息子さんがお二人おられます。

お名前は、長男の方だけ判明しており、

お名前は、幸一郎さんとおっしゃいます。

 

この幸一郎さん、

かなりすごい方なんです。

 

なんと、

バレーではなく、

サッカーのFIFA(国際サッカー連盟)の

アジア人唯一の職員として、

世界各国で活躍されています。

こちらは、元バレーボール選手の

大林素子さんのブログに

2012年に掲載されていた

幸一郎さんの画像です。

(もちろん右側の方ですよww)

 

やはり、お父さんの関係でしょうか、

子供の頃は、

大林さんが当時所属していた

日立の練習場に出入りしていたそうです。

 

当時は、

選手たちのアイドルだったそうですww

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ペルー女子バレーチームのその後・現在

さて、加藤さんが、

亡くなる直前まで気にしておられた

ペルー女子バレー代表チームですが、

 

加藤さんが亡くなられてから、

半年後に開催された世界選手権では、

加藤さんが念願だった、

日本代表にも勝つことが出来、

見事準優勝を果たします

 

そして、4年後の1986年の世界選手権でも

3位入賞を果たし、

1988年のソウルオリンピックでは、

銀メダルを獲得するまで成長します。

 

加藤さんにぜひ見て欲しかったですね。

 

しかし、90年代に入ると、

ブラジルが力をつけてくるようになり、

南米選手権でも、95年以降

準優勝か、3位に甘んじています。

 

また、五輪も

2000年のシドニーを最後に長らく

出場できていません。

 

ちなみに、

現在の世界ランキングは26位と

微妙な位置ですね。

 

まぁ、

なかなかずっと好調は

維持できませんよね。

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死後

さて、

ペルーの英雄加藤監督が亡くなられた

とニュースが流れたペルーでは、

新聞各紙が大々的に

強い悲しみと

最大級の賛辞・哀悼の意を報じた。

 

また、時のペルー大統領

ベラウンデ大統領も、

「彼はペルー人以上に

ペルーを愛してくれた」

と、声明を発表するほどでした。

 

そして、

ペルーバレーボール協会主催で、

葬儀が国立競技場で執り行われ、

5万人が参列したそうです。

 

また、日本のように香典の文化がない

ペルーですが、

日系の方が多いためか、

寸志でしょうが、

封筒にお金を入れてくれる方も

いたそうで、

中には、おそらく加藤さんに直接関わりが

ないであろう小さな女の子が封筒に

わずかばかりのお金を入れて

持って来てくれたそうです。

 

すごい話ですね。

本当の意味での

ペルーの英雄だったんですね。

 

また、

遺骨は、半分に分けられ、

一つは、日本に持ち帰られたそうです。

 

そして、もう一つは、

選手たちが、政府に掛け合い、

墓所をもらい受けることが出来たそうです

そこは、

リマ市内にあるペルーのために貢献した

人だけが入れる特別な区画だそうで、

大統領などと一緒に

今もリマ市内にある、

アンヘル墓地に眠っています。

 

それだけ貢献が認められた

ということなんでしょうね。

https://flowsion.online/onaga-takeshi-1025

まとめ

いかがだったでしょうか

 

バレーボールを通して、

ペルーに多大に貢献され、

ペルーの英雄になられた加藤明さん

 

これが、

本来の国際交流なのかもしれませんね。

 

それでは、最後までご覧いただき

ありがとうございました。

 

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