世界ナゼそこに?日本人~知られざる波瀾万丈伝~

石井正治がインドネシアのこんにゃくで大人気!家族や会社の現在は?【世界ナゼそこに?日本人】

石井正治(いしい まさはる)さんが

【世界ナゼそこに?日本人】で

特集されます。

 

石井正治さんが

なぜインドネシアに渡り残ったのか、

こんにゃくで大人気の理由は?

石井正治さんの家族や会社の現在は?

などについて調べてみたいと思います。

スポンサードリンク

石井正治さんがインドネシアに行った理由は?経歴とプロフィール

出典:alies-net
名前石井正治(いしい まさはる)
生年月日1916年
没年月日2002年
出身地北海道
職業経営者
元軍人

石井正治さんは、大正5年に

北海道に生まれ育ちます。

釧路中学(現、湖陵高校)を卒業後、

徴兵検査を受け、難関である、

近衛騎兵連隊に入隊されます。

 

当時は、軍人で活躍することが

素晴らしいとされてきた時代ですから、

近衛騎兵連隊というエリートの部隊に

入隊されたことに関し、お父さんが

一番喜ばれたそうで、石井さんも

親孝行ができたと思ったそうです。

 

さて、時代は、混乱を極めていました。

既に1931年には満州事変が勃発しており、

石井さんも1939年、中国の広東省黄埔港

に出征します。

 

その後戦線が広がるにつれ、

石井さんもベトナム、タイ、シンガポール

マレーシア、インドネシアへと

進軍していきます。

 

1943年からは、インドネシアのムラボ

という街に駐留することになります。

 

そしてこの街で、終戦を迎えることと

なります。

 

日本の勝利を疑わなかった石井さんは、

愕然とされたそうです。

スポンサードリンク

石井正治さんがインドネシアに残った理由

さて、終戦となると、その後が

大変だったそうです。

 

終戦に伴って、

インドネシアを植民地としてきた

オランダが日本軍と入れ替わりで

戻ってきましたが、当のインドネシア

では、独立運動の機運が高まっており、

当時、残留していた日本軍に対して、

連合国側が武器を引き渡さないように

命令が出ていました。

 

つまり、日本軍の武器が欲しい

植民地側と、渡されては困る宗主国側

の板挟みになっていたんです。

 

そんな中、

日本への引き揚げ船がきましたが、

インドネシアの暴徒から武器や仲間を

守るため、ムラボに残って交渉したのが、

石井さんでした。

 

しかも災難は続きます。

その後役1年間なんと日本軍の

残留諜報員の嫌疑で投獄されること

となります。

 

しかし、そんな石井さんに、

少しだけ光明が差します。

 

投獄中に中国人の曽さん一家が

差し入れを持ってきてくれたそうです。

 

軍政当時賭博容疑で捕まった曽さんを、

石井さんが釈放させてくれたことを

大事にしており、その後も付き合いが

あったそうです。

 

そして、石井さんの嫌疑が晴れて

釈放された後も、

曽さん一家の支援を受けて、

雑貨店を開き、経営に乗り出したそうです

 

そんなある日、

曽さんの奥さんから、娘さんとの

縁談を勧められます。

 

そこで、石井さんは、

「俺は新しい人生に向かって出発する」

と結婚を決意し、

曽さんの娘さん(クスマデリさん)と

結婚し、新たな門出を出発したそうです。

 

しかし当時は、

インドネシア独立軍と、

宗主国オランダ軍が衝突しており、

石井さんも、残留軍として、

インドネシア独立軍に参加します。

 

その後、戦争も落ち着き、

家族の元に戻ると、

お子さんも生まれ、家族で新たな

生活を始められます。

 

その後は日本人日本人会会長に就任し、

残留日本人の帰還事業をしつつ、

ご自身は、生活のため、

ゴム工場でゴムサンダルの製造や、

鉄パイプを曲げて子供用3輪車を製作し、

オランダ商社との契約を取り付けるなど

現金収入になることは全てに手を出した

と石井さん本人が振り返るほど

必死に働いていたそうです。

 

そして、1956年には、

日本の鹿島貿易がインドネシアに進出

したのを機に、石井さんは入社されます。

 

そこで厳しい交渉乗り越え大口の

受注を取り付けるなど活躍されます。

 

石井正治さんがこんにゃくで人気の理由
家族(嫁・子供)や会社の現在は?
次のページを↓

スポンサードリンク

1 2